アインシュタインから友情の碑
徳島には
あの~~~
アインシュタインと関わりが深い人物までいたよ!
アインシュタインの説明はしなくても 皆さんご存知でと思いますが・・・
アインシュタインと関わりがあった徳島出身の著名人を 紹介しますね。
その名は・・・
三宅 速さん
どんな人って・・・
三宅 速(はやり)博士は世界的な外科医で、
1866年に、徳島県穴吹町舞中島の医家に生まれた。
生い立ちは・・・
三宅博士は、12才の時上京
25才で東京帝国大学医科大学(現東大)卒業後
徳島市で三宅病院創立。
東京帝国大学医科大学卒業後は
外科教授であったユリウス・スクリバの勧めで外科医となる。
徳島市内の外科病院で5年ほど勤務したのち
ドイツへ留学してブレスラウ大学のミクリッツに師事し
胆石症の研究を行った。
帰国後
35歳の時に大阪府立医学校(現在の大阪大学)の付属医院外科医長
続いて京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学医学部)に赴任した。
その後再度ドイツへ留学し、1904年、38歳の時に福岡医科大学教授となった。この翌年の1905年10月には日本で初めて脳腫瘍手術に成功している。
1910年に九州帝国大学初代外科部長に就任した。
「1922年、欧米視察旅行から帰途の船中 欧米留学の帰途北野丸に同乗していたドイツの理論物理学者アインシュタイン博士の急病を船中で治療し救ったのをきっかけにお互いに親交していました。」
その後・・・
1945年5月に岡山市にいた長男の三宅博の家へ疎開していたが
同年6月29日の岡山大空襲に遭い、妻と共に死亡した。
三宅先生夫妻の戦争による死を悼んで、自筆の哀悼文が寄せられ、昭和29年舞中島光泉寺に夫婦の墓を建立するにあたり、アインシュタイン友情の碑に碑文が刻まれました。
光泉寺はここです・・・
アインシュタインからの哀悼文
ここに三宅博士と、みほ婦人が眠っている
ふたりはともに人の世のしあわせのために働き
そして世の恐ろしい迷いの犠牲となって
ともに亡くなった。
三宅博さん
息子さんも凄い人でした。。。
三宅 博
(みやけ ひろし、1901年 - 1993年)
日本の外科学者。
九州大学名誉教授。
胆石症の権威。
九州帝国大学医学部第一外科初代教授を務めた三宅速の長男として徳島県に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制佐賀高等学校を経て、
1927年、九州帝国大学医学部を卒業。
卒業後
九大医学部の赤岩八郎教授の第一外科に入局。
助手を経て、1933年1月、講師となり、1934年3月、助教授に就任。その後、1934年10月から1936年8月にかけて在外研究員としてドイツに留学し、キール大学のアンシュッツ教授に師事する。
1938年7月、長崎医科大学第一外科教授、1941年12月、岡山医科大学第一外科教授を歴任した後、1947年7月、父が初代教授を務めた九州大学医学部第一外科の第4代教授に就任。
1956年8月から1958年7月まで九州大学医学部附属病院院長も務めている。
1965年3月、九州大学を定年退官。
その後九州中央病院院長に就任している。
1964年、「胆石症の成因ならびにその治療に関する研究」により日本医師会医学賞受賞。
1971年、胆石症の研究により武田医学賞受賞。
岳父は大阪医科大学(大阪大学医学部の前身)学長を務めた病理学者佐多愛彦。義弟に医療機器会社「東機貿」創業者の佐多保之。
娘は北里大学名誉教授、連合三田会会長の比企能樹夫人。
アルベルト・アインシュタインは、科学者としてだけでなく、深い人間愛と友情に満ちた人物でもありました。彼はその理論や科学的業績だけでなく、多くの人々との友情によっても知られています。その中でも特に有名なのが、日本との交流にまつわる「友情の碑」のエピソードです。この記事では、アインシュタインの友情の碑に込められた意味や、その背景にあるアインシュタインの人間性について考えてみます。
アインシュタインと日本の交流
アインシュタインが日本を訪れたのは1922年のことでした。彼は妻とともに日本に約6週間滞在し、各地で講演や交流を行いました。この訪問は、日本の科学界や一般市民に大きな影響を与え、彼の人間的な魅力も多くの人々に感銘を与えました。アインシュタインは、日本文化に対して深い関心と敬意を持ち、特に日本の芸術や哲学に触れたことは彼にとって大きな意味を持ちました。
この日本訪問の中で、アインシュタインは多くの友人を得ました。その中には、当時の日本の学者や知識人だけでなく、普通の市民たちとの交流も含まれています。アインシュタインは、日本での滞在を非常に楽しみ、後にそのことを多くの手紙や回想で語っています。
友情の碑の誕生
アインシュタインと日本の友情の象徴とも言える「友情の碑」は、彼の日本訪問から数十年後に生まれました。この碑は、アインシュタインと日本の友好関係を記念するもので、広島県福山市に設置されています。広島といえば、原爆が投下されたことで世界的に知られていますが、福山市は戦後復興の象徴としても注目されており、アインシュタインが友情の証として選んだ場所としてふさわしい地であったと言えます。
碑には「真理・平和・友情」と刻まれています。これらの言葉は、アインシュタインが生涯を通じて追求した価値観を象徴しています。真理を追求する科学者として、また平和主義者として、アインシュタインは常に核兵器の脅威や戦争の無意味さを訴え続けました。同時に、彼は人と人との間の友情や理解が平和をもたらす鍵であると信じていました。
この碑は、アインシュタインの遺志を継いで、日独の友好関係の象徴として建立されました。科学技術の進歩と人間の倫理が対立する時代において、アインシュタインの友情の碑は、科学がもたらすべき平和と共生の理想を象徴しています。
アインシュタインの平和主義と友情
アインシュタインは、晩年にかけて平和運動にも積極的に関わりました。彼は第二次世界大戦中にナチス政権から逃れ、アメリカに亡命しましたが、そこで原爆開発のプロジェクトに間接的に関与したことに強い後悔を感じていました。特に、原爆が実際に使用され、その被害が広島・長崎に及んだことを知った後、アインシュタインは核兵器に対して強い反対の立場を取りました。
彼は科学者としての責任を感じると同時に、個人としても平和のために何ができるのかを模索しました。友情の碑は、彼のそうした思いが形となった一つの象徴であり、平和への願いが込められています。
アインシュタインは、国境や人種を超えて友情を重んじました。彼の考えでは、科学は国際的なものであり、人類全体の幸福に寄与するべきものです。彼は科学者としての業績だけでなく、人々とのつながりや友情を大切にし、平和な未来のためにその力を使いたいと願っていました。
友情の碑の現代的意義
現代においても、アインシュタインの友情の碑は重要な意義を持っています。私たちは、科学技術が急速に発展する一方で、その倫理的な側面や人間関係の大切さを見失いがちです。アインシュタインの友情の碑は、科学がもたらす知識や技術が、人間同士の友情や相互理解を基盤にしてこそ、平和な世界を築くことができるというメッセージを伝えています。
さらに、友情の碑は国際的な視点を持つことの重要性をも教えてくれます。アインシュタインは、個々の国や文化に固執せず、広い視野で世界を見つめ、互いに尊重し合うことを大切にしました。彼の友情の碑は、その考え方を象徴するものであり、現代のグローバルな社会においても重要なメッセージを発信し続けています。
結論
アルベルト・アインシュタインの友情の碑は、彼の深い人間愛と平和への願いが具現化したものです。彼の科学的業績だけでなく、人間同士の友情や相互理解を重んじる姿勢は、現代においても重要な教訓となっています。アインシュタインが追求した「真理・平和・友情」という価値観は、私たちがこれからの未来を築く上で欠かせないものです。友情の碑は、アインシュタインの遺産として、そして私たちに平和と共生の大切さを問い続ける象徴として、永遠に輝き続けるでしょう。